制限を伴うコロナ対策は「誰かの生活を壊す」ということ。

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新型コロナウイルスの対策として
「休業要請」をしたり、特定の業種に対して、
入場人数の制限をしたり、
そういったことも行われています。

ですが、そういった”何かを制限する”という
ことは「誰かの人生を壊すこと」である、ということは
物事を決める側も、意見を述べる専門家も、
ネットで軽々と批判している人も、
ちゃんと理解しておく必要があります。

そして、物事を決める立場にいる人、
発言力の大きい人はなおのこと、
「このこと」はしっかりと重みを持って考えなくてはいけません。

あなたの発言が「誰かの人生を壊し、破滅させる可能性がある」
ということです。

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制限をすれば「誰か」の人生は壊れる

これが現実です。
特定業種の休業要請でも、
時短要請でも、
緊急事態宣言でも
”何かを制限する”ことによるコロナ対策は、
それで救われる人がいるかもしれない、ということは事実ですが、
反対に「制限」されたことにより、それで破滅する人がいる、
というのも事実です。

例えば「休業要請をします」と、休業要請をすれば
それで、お店がつぶれたりして、人生が大きく変わってしまったり
あるいは「破滅」してしまう人も本当にいるのです。

何かを制限する、ということは、
見ず知らずの「誰か」の人生を破壊する、ということなのです。

綺麗事ばっかりではなく、
こういう現実も見なくてはいけません。

言葉に責任を持ち、重みを自覚する

発言力のある人間が、簡単に
「休業要請を提言する」だとか、そういうことを言ってはいけません。

先ほど書いたように、本当に
「誰かの人生を破壊する」行為であることは事実なのです。

もちろん、ネット上で騒いでいる個人の方もそうですが
「休業しろ!」「緊急事態宣言をしろ!」ということは
それで影響を受ける誰かに対して
「破滅しろ」と言っているのと同意です。
少なくとも、影響を受ける本人からすれば、
そう感じることでしょう。

そして、話を戻しますが”影響力の高い人間”は
さらにこの点を理解しなくてはいけません。

自分たちが「何か制限」をすることで、
職を失ったり、暮らしていくことができなくなって破産したり、
最悪の場合、自ら命を絶つような人が、確実に出て来る、
ということです。

そのことをちゃんと想像し、
その上で「休業要請」や「緊急事態宣言」など
宣言を伴うものを出しているのかどうか。

そのことをちゃんと理解して、
提言しているのかどうか。

何かを制限することには「誰かの人生をも奪いかねない重み」が
あるのです。

そこまで考えずに
単純に、感染者数が増えてきたからその地域に休業要請!
などと言っているのであれば
「自分本位」でしかなく、
発言力の高い人間として、「自覚」が足りません。

考えてみてください。
自分の発言ひとつで、誰かの人生を壊すかもしれない重みを。
そして、それを自覚するべきです。

もちろん、それでもやらねばならない、というのであれば
「覚悟」を持って、やる、というのであれば、
本当に必要なのであれば
仕方のないことです。

が、”軽い気持ち”で何かを制限する、ということは
絶対にやってはいけないことです。

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自分の家族や友人が相手でも、出来るのか?

感染対策のために
何かを制限するのであれば、
「その制限によって破滅するかもしれない相手」が
自分の家族や友人、恋人だったとしても、
同じことができるのかどうか。

影響力の高い人は、それをよく、自問自答すべきですし
ネットなどで軽い気持ちで緊急事態宣言を!
等と言っている人も
「それによって破滅するのが自分の大事な人だったら」を
よく自問自答してみてください。

それでも、”同じこと”ができますか?

あなたの発言や、あなたの決断によって
「自分の家族や友人の生活が破綻」したり
「会社が倒産」したり「職を失ったり」
最悪の場合、全てを失って命を絶ったり…

それでも、あなたは
何かを制限する対策に踏み切ったり、
提言したり、ネットで騒いだり、できますか?

仮に、自分がその”制限される立場”だとしても、
同じことが言えますか?

よ~く、考えてみてください。

ここで、「う~ん」となってしまうのであれば
「自分勝手」と言わざるを得ません。

制限することにより、「破滅する誰か」が
知らない人ならそれをできるのに、
自分の家族や友達が影響を受けるとなったとたん
それが出来なくなる…
なんて言うのであれば、覚悟も何も
全く足りませんよね。

結局「自分には関係ないところが犠牲になるから
制限しても構わない」と思っている、ということです。

逆に、休業要請をしたり、緊急事態宣言を出したり、
出たり、した場合に
自分の家族や友人が巻き込まれて破滅することに
なるのだとしても、
それでも「やらなければいけない」という
「誰かの人生を奪ってしまうかもしれない重み」を理解した上で
覚悟の苦渋の決断なのであれば、
それは、やむを得ないこと、と言えますし、
本当に何かを守るためなのであれば、
それは仕方のないことなのでしょう。

犠牲を0にすることは、綺麗事抜きで語れば
”不可能”なことは事実ですからね。

ただ、相手が自分の家族や友人になったとたんに
躊躇するようなのであれば
それは「するべきではない」と言うことですし
「覚悟が足りない」と言うことです。

相手が誰であろうと、
休業要請や緊急事態宣言、
その他の何かを制限することは、
誰かの人生を壊すこと、ですからね。

恨まれる覚悟も必要

当然、何かを制限すれば、これまでにも
書いてきたように、
「誰か」の人生は破綻します。

休業要請で、経営苦に陥り、
ショートしたお店もたくさんあるでしょう。
と、なればどうでしょう?

あなたがその立場だったら?
「要請してきた相手」に対し、
自分の生活を破滅させた相手に対し、
少なからず、「面白くない」感情は
抱くのではないでしょうか?

「感染予防対策のために、
私は人生を破滅させます!」なんて
人は、まずいないでしょう。

何かを制限する、ということは
誰かを破滅させると同時に、
誰かに恨まれる可能性があることも意味します。

感染症予防のために休業要請をしたり、
何かを制限したりする、ということは、
それだけ重いことであり、
少なくとも軽々と口にするべきことではないのです。
重みを理解していない影響力だけが強い人は
絶対に口にしてはいけません。

持つべき心構え

休業要請や緊急事態宣言、何かを制限する対策を
しろ!しろ!と騒いだり、
影響の高い人が「する」と決断するのであれば
その重みを理解するべきです。

「誰かの人生を壊すかもしれない」ということ
そして「その誰かに恨まれるかもしれない」ということ。

何かを制限すれば、それは綺麗事では済みません。
必ず誰かが犠牲になります。
これは、紛れもない事実であり、
揺らぐことのない事実です。

それをしっかりと理解した上で、
それを背負う覚悟があり、
さらには、もしも「犠牲になる誰か」が
自分の家族であったとしても、
やはり、感染予防のためにこれは必要だからやるんだ!

そのぐらいの覚悟が無ければ、
「甘い考え」を言わざるを得ないでしょうし、
軽い気持ちで他人の人生を壊してしまってはいけません。

まとめ

感染予防対策のために
何かを制限することは
誰かを犠牲にすることです。

誰かを守れるかもしれないけれど、
誰かが犠牲になるかもしれない。
それが、答えです。

軽々と制限を伴う対策を口にするべきではありません。

もし、制限すること、制限されることによって
破滅するのが「自分の大切な人だったなら」
それを想像してみてください。

それでもあなたは制限を伴う対策をするべき!と
叫ぶことはできますか?

できないのであれば
覚悟が足りません。

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